シュートメさまが、引っ越した。
ちょうどひと月ほど前のこと、おなじ敷地の隣に住んでいた主人の母(シュートメさま)が引っ越した。
車で15分ちょっとの隣の市にある、主人の兄の住む家に。
もう、ずいぶん前から決まっていたことで、母の想いも十分聞いたうえでの出来事だったので
特になんていうことはナイのだが。
ひとつの家族の区切りなので、ヨメの記録として、ブログに残しておこうと思う。
私の手元には、二冊の「育児書」がある。
奥のものは、私が長女を出産して買ったもの。
手前は、初版昭和32年発行の、シュートメさまが初めてお母さんになった時に買ったものだ。
どこの家庭でもあるように、孫と子供の育て方の相違は我が家にもあった。
だって半世紀くらい違うんだモン。
お互いが「正しい」と、産院など周りから教えられた”知識”が違いすぎた。
悩んで、モヤモヤして、イライラして・・・
そんな三世代同居生活がスタートしたころ、たまたま二階の物置でこのボロボロになって表紙のとれた母の育児書を見つけた。
中には、赤いボールペンでびっしりと線がひかれていて、母の生真面目さと一生懸命さが今とひとつも変わっていないことがすぐに伝わってきた。
ネットやメディアで、さまざまな情報にあふれ過ぎている現代とはちがい
知らないこと、わからないことが、この時代の新米ママにも私たちと同じように、いやそれ以上にもっともっとたくさんあったのだろう。
妊娠中に注意することの中に、漬物石を持たないようになど、この時代ならではのモノもたくさんあって、興味深く読ませてもらった。
私の身体の都合で、母乳を娘にあげられず、大きなコンプレックスを感じていたのだが
山羊(ヤギ)のお乳でも赤ちゃんは育つことを読んで、こだわるのがバカバカしくなった。(笑)
「おかあさんも、悩んでたんだ。一生懸命、手さぐりで子育てしてらしたんだ。」
そう思ったときに、初めての子育てで「何が正しいのか?」アレコレ悩んでいた気持ちがものすごく軽くなったのを覚えている。
私の不注意で、娘たちふたりがケガをしたり、病気になったときも松尾の母は一度も私を叱らなかった。
(実家の母へ電話で報告すると、案の定「アンタがしっかりしてないから!」と言われては、ヨメ激凹み。(苦笑))
松尾の母への想いを書き出すと、それこそ新しい年が明けてしまいそうなくらい長くなりそうなのでここで一旦止めることにするが
いつも隣にいてくれた母が、いなくなったことは正直サミシイ。
(いなくなったと言っても、ほぼ毎日顔を見せに来てくれるのだが。(笑))
土日に仕事が入った時、夜中にどちらかの娘の具合が悪くなった時、主人が1週間近く出張するとき
いつも快くサポートしてくれた存在であり、いなくなって初めて「あぁ、頼りきってたなぁ。」と。
母は、主人と一緒になるときに、花嫁である私にひとつのお願いをされた。
「忙しかったらご飯の支度もお惣菜や出来合いのものでいいし、少々家が散らかっていてもかまわん。
ヨシマサが、やさしい穏やかな人形の顔を描ける環境をつくってやって。
お母さんからの、ひとつだけのお願い。」
手をあわせて、祈るように私に頭をさげてくれた母からの言葉が、ずっと私のブレない目標になっている。
年があけると、1月「睦月」。
いろいろなお家で、お姑さんとお嫁さんが時間をともにすると思う。
睦月は、「睦み合う月」と書く。
家族、兄弟、近しいひとみんなが、互いに慣れ親しむ機会がたくさんあると思う。
久しぶりに会う、お姑さんやお嫁さん、メンドクサイ関係であることは、私もよくよく承知しているが。
そのメンドクサイ関係を、逃げずにキチンと向き合った先に得るものは、何よりも大きいと私は思う。
お義母さんをよろこばせようと選ぶ、高価なプレゼントや、手の込んだお料理、気の利いたふるまいよりも、なによりも、
私自身が元気でいて、母の大事なヨシマサさんと孫たちに、笑顔で元気で接することが、きっとシュートメさまは一番望んでいるんだと、ここ最近になって、ようやくそう思う。